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 指 定 区 分:国指定史跡

 所  在  地:まんのう町造田

 管 理 団 体:まんのう町

 指 定 年 月 日:平成20328

中寺廃寺跡は、徳島県との県境に程近い大川山(だいせんざん)(標高1042.9)西尾根、標高約700mの山奥に位置する平安時代の古代山林寺院跡である。西は愛媛県境から始まり、北には空海が修築した満濃池、東は東かがわ市の一部までと、ほぼ讃岐平野全域を眼下に一望できる。遺跡は深山幽谷の18.8ヘクタールに広がり、主な施設は尾根斜面の3か所に造成された平坦地に配置されている。
  最も高い平坦地(仏ゾーン)では、仏堂(ぶつどう)(とう)大炊屋(おおいや)跡(供物の調理施設)を確認した。仏堂跡からは鉄釘・金具・灯明(とうみょう)(ざら)が出土した。塔跡は堅固な盛土上に築かれ、(しん)礎石(そせき)の下からは()(ちん)鎮壇(ちんだん)()が出土した。大炊屋跡には(かまど)の痕跡があり、多量の食器や調理道具が出土した。
仏堂と塔はともに南を向き、仏堂の正面を避けて塔が立地している。この位置関係は讃岐国分寺の伽藍(がらん)配置と相似しており、中寺と讃岐国分寺は僧侶が修行のために往来する関係にあったと思われる。仏堂・塔は計画的に建物が配置された中枢伽藍であったと考えられることから、仏ゾーンは中寺の中心的な地区であるといえる。
  東尾根の平坦地(祈ゾーン)では、(わり)拝殿(はいでん)僧房(そうぼう)跡を確認した。割拝殿は当時の古代山林寺院としては大規模な建物で、東には広場(ひろば)を持つ。割拝殿から広場を見通した正面には、古くから信仰の対象となった霊峰大川山を望む。僧房跡からは西播磨産(にしはりまさん)須恵器(すえき)多口瓶(たこうへい)・中国越州(えつしゅう)(よう)(けい)青磁(せいじ)(わん)佐波理(さはり)加盤(かばん)(のき)丸瓦(まるがわら)石帯(せきたい)など貴重な遺物が出土した。また古密教(こみっきょう)の特徴を持つ三鈷杵(さんこしょ)錫杖(しゃくじょう)といった法具(ほうぐ)も出土し、中寺の始まりを考える上で重要な資料となっている。祈ゾーンはその立地から、中寺の中では最も早い時期から大川山信仰に根ざす活動が行われ、時代を経るにつれ割拝殿・僧房が建立されるなど、修行と生活の場としての機能が加わっていったと考えられる。大川山との関係も含め、中寺の始まりと発展を考える上で重要な地区である。
  仏ゾーンと谷を挟んで向かい合う平坦地(願ゾーン)には、石組(いしぐみ)遺構(いこう)16基が分布している。願ゾーンは古来より人の立ち入りが少なかったと考えられ、現在まで平安時代に近い姿で保たれている希少な地区である。石組遺構は一辺が約1.4m、高さ約40㎝で、一見、墓のような外観ではあるが埋葬の痕跡はなく石塔(せきとう)と考えられる。平安時代の書物によると、平安時代中頃には石を積んで石塔とする行為が一般の民衆に広がっていたことが記されている。願ゾーンにおいても仏教を信仰する一般の人々が年中行事として石組の塔を造ったと考えられ、祭祀(さいし)的な意味合いの強い地区である。
  平地に立地するものが一般的だった古代寺院は、平安時代になると修行の場として山中へ造営されるようになったが、中・四国における古代山林寺院の展開についてはまだまだ謎が多い。中寺廃寺跡はそのような中で様相が明らかとなった数少ない寺院跡の一つである。

→中寺廃寺跡保存整備完了のお知らせ


平安時代のたたずまい 中寺全景

平安時代のたたずまい 仏ゾーン 仏堂と塔



仏ゾーン 塔跡

仏ゾーン 塔跡心礎石下の様子

平安時代のたたずまい 祈ゾーン 割拝殿と僧房 

祈ゾーン 割拝殿跡

祈ゾーン 僧房跡

 祈ゾーン 僧房跡から出土 西播磨産須恵器多口瓶

 


祈ゾーン 僧房跡から出土 (左:三鈷杵 右:錫杖)


願ゾーン 石組


北側遠景 満濃池

フッターイメージ